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第七話 おかえり

Author: 月歌
last update Last Updated: 2025-08-02 11:38:19

鍵を差し込んで扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。

静かで、誰もいない家の匂い――

六年前に止まったままの時間が、そこに横たわっている。

小さな玄関。靴箱の上には、結婚式の写真があった。

少し埃をかぶったその写真を、そっと指先でなぞる。笑顔のふたりが、わずかに揺れた。

――ここで、暮らしていた。

ふたりで、未来を築いていくはずだった。

ローンは苦しかったけれど、夢があった。

小さな庭にビニールプールを広げて、子どもと水遊びをして。

砂場を置いて、三人でバーベキューをして。

そんな光景を思い描きながら、何度も笑い合った。

けれど、あの日を境に、すべてが崩れた。

「浮気相手の女に刺された」と報道された。

彼女はこうも言った――

「奥さんが実家に帰っていた日、高村さんと、あの家で関係を持ちました」

信じたかった。

それでも、疑ってしまった。

泣いて泣いて、眠れない夜をいくつも越えた。

そして、夫が死んで一ヶ月が過ぎた頃――

彼は突然、現れた。

あの日と同じ、無造作に跳ねた前髪と、気怠げな笑みを浮かべて。

《俺、浮気してないから》

《俺が愛しているのは、お前だけだ》

その声は、やけにリアルだった。

怖かった。でも、愛しかった。だから声が出なかった。

それから、彼は何度もふいに現れては、まるで生きている頃のように、他愛もない話をしては消えていった。

――幻か、妄想か、本当に幽霊なのか。

わからないまま、時だけが過ぎていった。

けれど今日、裁判が終わったと連絡を受けた。

加害者の女は控訴せず、判決を受け入れると告げたという。

ようやく、長かった時間が終わったのだ。

実家に持って帰っていた位牌を胸に抱え、リビングの仏壇にそっと戻す。

線香を焚き、手を合わせる。

「……すべて、終わったわ。悠真。疑ってしまって……ごめんなさい」

そう呟いたとき、不意に、背後から声がした。

《――遥》

息を呑んで振り返る。

そこに、彼がいた。

いつものように、リビングの隅に立って、微笑んでいる。

「悠真……!」

込み上げてくる涙に、何も言葉が続かなかった。

もしかしたら、裁判が終われば、彼はもう現れなくなると思っていた。

成仏してしまうのではないか、と。

それでも、こうして、ちゃんと――

《……おかえり、遥》

優しい声だった。

それを聞いた瞬間、堪えていたものが、決壊した。

「……ただいま
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